2025年 年間標語 年間標語「強く、雄々しくあれ」(ヨシュア1章1~9節)
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『最も困難で辛い戦い』 牧師コーナー(807)
皆が感じている問題を分かち合いたいと思います。それは、クリスチャンが日常生活の中で仕事や奉仕をする際に直面する、困難で辛い戦いがあるということです。それは「自分自身との戦い」です。熱心に、誠実に、よく仕えて生きてきた人たちが、あっけなく崩れていくのを見ると、その原因が外側ではなく、むしろ内面にあることが分かります。自分の内面を守れなかったときに、人は倒れたり、つまずいたりしてしまうのです。
聖書を見ても、初めは謙遜だったサウル王も高慢になって失敗し、誇らしかったダビデでさえ性的誘惑に敗れました。あれほど断言していたペテロでさえ、3度もイエス様を否認し、つまずきました。誰もが正しい考えをもって、正しい道を歩もうとするなら、自分自身との戦いを続けなければなりません。自分の誤りを認めて正し、不足していることを補い、得意なことをさらに活かしていく「自己省察」が欠かせません。
しかし、仕事や奉仕に慣れてくると、この内面的な戦いが疎かになりがちです。なぜなら、それは表に出にくく、他人には気づかれにくいからです。奉仕に忙しくしていると、神のみことばの前で「自分が今どのような姿であるのか」を省みることができず、「一生懸命働き、奉仕しているのだから、正しく生きているはずだ」と錯覚してしまう危険があります。これこそが、私たちが陥りやすい最も大きな落とし穴です。
こういうときには、自分自身を客観的に見つめる時間が必要です。神の御前で、毎日静まる黙想の時間に、自分の内面と動機を見つめ、誤ったところがあればすぐに悔い改めて立ち返る必要があります。言い訳をしたり、自分を正当化し続けると、自分の内面の状態を見ることができなくなり、自分自身との霊的な戦いをあきらめてしまうことになります。その結果、自分の心が次第に高慢になって倒れてしまったり、逆に無気力になって落ち込んでしまうという危険に陥ります。そして、自分の内面にある感情だけを刺激するサタンの攻撃に気づけなくなります。サタンは、私たちが自分自身の内面の状態を見ないようにさせて、失敗へと導きます。
たとえ人一倍熱心に働き、奉仕し、多くの実を結んだとしても、自分自身との戦いに敗れたなら、すべてを失うことになります。だからこそ、まず神の御前で自分の内面を常に見つめ、高慢や怠惰に陥らないように自分自身と戦い続けるとき、それこそが自分自身を守る道であり、自らの人生と与えられた奉仕の働きにおいて勝利する道なのです。
聖書を見ても、初めは謙遜だったサウル王も高慢になって失敗し、誇らしかったダビデでさえ性的誘惑に敗れました。あれほど断言していたペテロでさえ、3度もイエス様を否認し、つまずきました。誰もが正しい考えをもって、正しい道を歩もうとするなら、自分自身との戦いを続けなければなりません。自分の誤りを認めて正し、不足していることを補い、得意なことをさらに活かしていく「自己省察」が欠かせません。
しかし、仕事や奉仕に慣れてくると、この内面的な戦いが疎かになりがちです。なぜなら、それは表に出にくく、他人には気づかれにくいからです。奉仕に忙しくしていると、神のみことばの前で「自分が今どのような姿であるのか」を省みることができず、「一生懸命働き、奉仕しているのだから、正しく生きているはずだ」と錯覚してしまう危険があります。これこそが、私たちが陥りやすい最も大きな落とし穴です。
こういうときには、自分自身を客観的に見つめる時間が必要です。神の御前で、毎日静まる黙想の時間に、自分の内面と動機を見つめ、誤ったところがあればすぐに悔い改めて立ち返る必要があります。言い訳をしたり、自分を正当化し続けると、自分の内面の状態を見ることができなくなり、自分自身との霊的な戦いをあきらめてしまうことになります。その結果、自分の心が次第に高慢になって倒れてしまったり、逆に無気力になって落ち込んでしまうという危険に陥ります。そして、自分の内面にある感情だけを刺激するサタンの攻撃に気づけなくなります。サタンは、私たちが自分自身の内面の状態を見ないようにさせて、失敗へと導きます。
たとえ人一倍熱心に働き、奉仕し、多くの実を結んだとしても、自分自身との戦いに敗れたなら、すべてを失うことになります。だからこそ、まず神の御前で自分の内面を常に見つめ、高慢や怠惰に陥らないように自分自身と戦い続けるとき、それこそが自分自身を守る道であり、自らの人生と与えられた奉仕の働きにおいて勝利する道なのです。
趙 南洙師